北海道で地震を経験したが、わりと恵まれていた人間の話
教訓
災害への準備
- 発電機を各家庭で持つこと
- 食料は3日分のバッファを持っておくこと
- 大災害が起き、連絡が取れなくなった時の家族との約束事を決めること
災害発生からの行動(家にいる場合)
- 近くのコンビニやスーパーに食料を音速で調達しにいくこと
- 断水になる前にバスタブに水を貯めること
- 移動する準備をすること
災害発生からの行動(外出している場合)
- 揺れている瞬間に近くのホテルを三日分確保すること
- コンビニへ行き、食料と衣類と充電器を確保すること
- 近くにいる友人を捕まえて一緒に行動すること
学び
①人間は電気がないと無力
②水もないと無力
③慌てるのは無事に避難してからで十分
はじめに
学会での発表も終わり、次の日には東京に帰ることを考えるともう少し札幌で遊んでおきたかったと思った。
しかし懇親会もあり、お酒も入っていて眠かったので札幌プリンスホテルでぐっすり眠ることにした。
地震発生
午前3時。突然の緊急地震速報と共に経験したことがない揺れをホテルのベッドの上で感じた。時間にして15秒程度だったが、自分でもびっくりするくらい情けない声で
「うああああ」
と叫んでいた。
しばらくして揺れは収まったが、情けないながら何もできずにベッドでじっとしていた。
状況を確認しようとテレビをつけると、呑気なショッピング番組が放映されていた。地震が起きると必ず地震速報が番組の上部分に文字で配置されるが、今回もいつも通り配置されていた。どうやら震度は6だったらしい。
「まあ大きな地震だったな」
その程度で捉え、
「また日が登ればいつもと同じ日常がくる」
と思っていた。
しかしその瞬間、テレビが消えた。停電だ。
ホテルでは非常電源が働き、小さな電気が一つだけ付いた。時は3時40分。
しばらくして寝ようとすると、不気味な警告音が再びなった。
それはホテルのアナウンスだった。
「停電が起きました。エレベーターが使えないので階段をお使いください。」
アナウンスくらい優しい警告音にして欲しい。
そういえば隣の部屋の住人は地震が起きると同時にコンビニへ行き、停電が起きる前に食料を調達していたことは音で感じ取っていたが、とても賢い行為だ。
その後も不気味な警告音が鳴り響くたびにホテルからのアナウンスが流れた。その度にびっくりすると同時になんとも言えない不安が襲って来た。
さすがに一人で体験するには怖かった。
学会に一緒に来ていた教授と助教の方に連絡を取り安否を確認。助教の方は徹夜で次の日の発表準備と論文執筆をしており、この揺れが収まった後でも、
「作業に戻ります」
というメッセージを残してやりとりは終わった。
行動
4時頃になり、こりゃ寝てもいられないと気づき、行動を起こすことにした。チェックアウトは午前11時だ。
この時点で手に入っている情報としては、
①大きな揺れが起きた
②ホテルは問題がない
③全道で停電が起きた(ソースはツイッター。いつ復活するがわからないが、すぐに復活すると勝手に予測)
の3点である。
この時は帰りの飛行機が欠航になることや、電車も動かなくなる、などということはまったく知る由もない。
PCの充電は100%、iphoneの充電も100%。
まったくPCを使わなければ5回分のiphoneの充電は賄えることを確認。
ひとまず最悪の事態も考慮して行動することにした。
まず私がやったことは、腕立て100回である。
この先運動ができない状況も考慮した。運動ができなければきっと自分にとって最大のフラストレーションになることはわかっていた。
よって、いつもより追い込みぎみの腕立てを行った。
その後はシャワーを浴びた。奇跡的にお湯が出た。この先シャワーを浴びることができない日が何日が来そうだと予測し、シャワーを味わった。
停電に伴って水が出ないことも考慮して、バスタブに水を貯めた。
また、トイレも水が流れるうちに出せるもんは出しておこうと思ったがなかなか出てこなかった。
次に荷造りを行った。服は残り一日分しか残っていない。咄嗟に目の前にあるホテル備え付けのパジャマをカバンに入れた。
学会は襟付きで長ズボンという暗黙の常識が存在しているが、翌日にもし学会があるということを踏まえても半袖半ズボンで行動した方が良いと踏んだ。
「TPOを弁えた服装をすること」と指定されていたが、まあ怒られれば謝ればよい。
すべての準備を終えた時には5時になっていた。空も明るくなり、外を見ているなんと信号がついていない。
驚きだった。
助教の方に連絡をとると、荷造りは完了したが論文の執筆を続けているとのこと。
ひとまず様子を見ることにした。
北海道に転勤になっている友人に連絡を取り、安否の確認をお互いにした。揺れは小さい地域だったが停電だという。乳製品を扱う会社の彼は、停電が引き起こす乳製品工場での被害の大きさを嘆いていた。
ツイッターで情報をザッピングしていると、どうやら被害は大きいということに気づく。
学会のアカウントも中止をお知らせしていた。
これはまずいということで再び助教の方に連絡。すでに中止の連絡はキャッチしており、ひとまず朝の8時30分に大通駅付近のパルコの前で集合し、教授のいるホテルにいったん行くことになった。
飛行機が動くのか、電車が動くのかなどの情報を必死に探したが、出てこなかった。次の日の仕事はどうすれば良いのか。
ここで、次の行動への目処がたった私は一寝入りした。
起きると時刻は7時。ホテルに備え付けられているスマートフォンのようなもので情報を収集した。てんぱって英語モードで起動してしまい、googleでsearchingした。自前のデバイスのバッテリーは滅多に使いたくない。
東京にいる家族に無事を伝え、これからはインスタのストーリーで現状を知らせると伝えた。
普段現金を財布に入れない自分だったが偶然にも財布に7000円入っていた。電気がなければクレジットカードも使えないのである。
ホテルを出て、教授の元へ
忘れ物がないことを確認し、持っていたペットボトル2本に水詰め込んだ。最後にもう一度シャワーを浴びた。貯めた水はとてももったいない気がした。
停電の影響でエレベーターは使えない。12階から荷物を持ちながら階段で降っていった。
フロントにつくと早速人混みがひどかった。この中で働いているホテルの方には敬意を表したい。その人たちも地震の被害を受けた側である。
人混みの大半は中国や韓国から来た観光客のようだ。
私は偶然にも売店が空いているのを見つけた。もちろん電気はついていないが、ホテルの予備電源でレジだけは動いていた。お土産用のお菓子を食料として購入した。甘いものしか買わなかったが、この時しょっぱいものも買えば良かったとのちのち後悔する。
ホテルのチェックアウトはPCを使えないためか、慌ただしかった。その人が何泊したか、どんなオプションをつけたのかなどは客の自己申告に委ねられていた。
私はカードでの支払いですべて完了していたため、カードキーの返却だけで良かった。
ホテルが提携しているトヨタレンタカーのカウンターがあったので、レンタカーで東京まで行く乗り捨てが可能かの相談をしてみると、今日は事情も事情なので当日の貸し出しはできないとのこと。なるほどな。
外に出て待ち合わせ場所の大通駅付近のパルコに歩いて向かった。
衝撃だったのは信号が付いていないということだった。ただ、信号がないからこそ歩行者と車両がお互いにゆずりあい、いつもより交通はスムーズだった。
現地の人に道を聞きながら待ち合わせ場所に向かった。
現状もわからず通勤していた会社員もいた。
なんとか助教の方と合流することに成功した。この時点で飛行機は欠航、次の日の出社に間に合わないことが確定していた。
会社に自分の現状を説明し、罪悪感に苛まれながら欠勤することとなった。
「無事に帰って来てくれ」と言ってもらえるが、それでも申し訳なかった。
そんなこんなで電気が存在しないススキノの街を歩き、教授のいるホテルに向かった。
コンビニの電気はついていない。もちろんマックも空いていない。
こんなにも電気がないと人間は無力になるのかと悲しくなった。
教授のいるホテルに到着し、10階へ向かった。
当然ながらエレベーターは使えない。非常階段で荷物を持ちながら登った。そのホテルは非常電源などなく、真っ暗であったが従業員の方が一階一階に立ち懐中電灯で足元を照らしてくれた。
そして、教授の部屋へとたどり着いた。
フェリーで帰京
教授と助教の方と集合し、今後の帰京方法について話した。
飛行機が動かないということは、残された道は
①フェリーで本州(秋田か仙台か新潟)に上陸し、新幹線で帰る
②レンタカーで東京に帰る
の2点である。
助教の方とレンタカーを借りるために街に出た。
どこも電気は通っておらず、機能していない。
ここで自覚した。
「我々は被災者だ。」
この事実は未だに受け入れられることができていないが、今回の地震は紛れもなく災害であり、無力な一人の被災者だった。
街には海外から来た旅行者が、状況もわからずパニックになっていたのを覚えている。
レンタカーショップ2件にいったが、どちらも状況が状況とのことで貸し出しは断られてしまった。
残された手段はフェリーである。
教授にこの事実を報告するためにホテルに戻った。
その途中で偶然にも空いていたコンビニに入るが、おにぎりなどの食べ物はまったくなかった。
唯一売っていたスナック菓子とパックのりんごジュースを購入した。
レジは店員さんが電池で動くタイプであろうバーコードリーダーで商品を読み取り、お金の計算は手元の計算機で行なっていた。
この時不思議に思ったのは、
「この状況でお金の価値はあるのか?」
ということである。お金は別に食べられない。ただ、世の中が広く信じているお金の価値自体はこの状況では皆無と言っていいのに、全員がお金の価値という幻想の信仰をやめることはなかった。
さらに街中を見て驚くのは、
「この状況でも人間はまだモラルが残っている」
ということだった。
コンビニに「本日閉店中」と書いてあれば、ガラスを割って入ることもない。立ち入り禁止のテープが貼られて入れば、そこには入らない。
しかし、もしこの状況が1週間も続けばモラルは崩壊するのではないか。などと考えていた。
ホテルに戻り、フェリーを予約しようとするもいずれも満席。どうにか取れたのは次の日の19:30出港の新潟行きのフェリーであった。
えいや!ということでこれを予約。
次の日に港に行くためにタクシーも予約できた。念を入れて昼の12時に出発することになった。ちなみに私が一連の予約をしたように書いたがすべて助教の方にやっていただいた。私はザコである。
次の日の12時までホテルで待機することになった。
依然として停電はしている。
幸せにもホテルの一室で過ごすことになった我々は本を読むなり、方々に連絡するなり、論文を執筆するなり想い想いの時間を過ごした。
トイレは流れず、食事は手持ちのお菓子を細々と食べる。
外は明るいが、もし夜になっても停電が続いているとどうなるかと考えると恐怖であった。
次第に電波も遅くなる。
「電気がないと人間は何もできないのだな。クラウドもクソもない。」
あらためて自覚する次第であった。
情報をツイッターであつめつつ、現状を把握していた。ツイッターを見ていて興味深かったのは、実際に地震の被害にあってない人々が「同情」し、その同情を「批判」しあっていた。
結局はこの事件に乗じて自己を満足するために利用しているのではないか。
ありがかたったのは、正確な情報だった。
なるべくカロリーを消費しないように生活していると、夕暮れ時に奇跡が起きた。
電気がついたのだ。
おそらくホテルの自家発電が機能したのだろうか、電気が復旧したのだろうか。
そこからはもう日常の生活だった。
ただ、ホテルの下には依然として部屋がなく避難している人が、ホテルの電力でデバイスを充電をしていた。ホテルもそれを容認していた。懐の深いホテルである。
信号ももちろん機能はしておらず、警察が手信号をしていた。免許を取って以来初めて見た。
夜になって散歩がてら電気が一切ついていないススキノを歩いた。奇跡的に空いている飲食店がないかと探したが、食料は一切なかった。写真はすすきのの赤髭のおじさんの交差点である。
このエリアの信号のみ発電機で動いていた。
BBQをしている人もいれば、過呼吸で救急車で運ばれる人、様々な人がいた。
そんな状況の人々を尻目に私は電気の通っている部屋でインターネットをしながら過ごしていた。罪悪感の塊であるが、助けたくても正直自分のことで精一杯だ。
夜が更けた。
タクシーでフェリー乗り場へ
ホテルの前で待っているとホテルの運転手が来た。
気立ての良い運転手で、乗り心地の良いクラウンだった。
タクシーの運転手曰く、
「信号がないことでお互いが譲りあっているからいつもより事故も起きない。気のせいかいつもより流れはスムーズ だ。」
とのことだ。
確かにその通りで、日本には無駄な信号が多い気もする。
タクシーの運転手と共に昼ごはんを一緒に食べることになった。
漁港向けの食堂だった。
そこではホッキガイカレーを食べた。
2日ぶりに食べるまともな食事に涙が出そうだった。
うめえ。
西にある港についた。タクシー運転手にバイバイをして、乗る予定の船の受付をしようとしたが、ここでアクシデント。
乗るはずの船がこない。
どうやら私たちが乗る船はタクシーで7000円くらい使う距離の東港だという。
北海道のほとんどの人は港といえば西しか知らないらしいということで、私は北海道に少し詳しくなった。
なんとか東港に移動した。
その後、フェリーに乗った。
自動販売機にはビールが売っていた。飲み物も食べ物も困ることはなかった。そして個室にベッド。テレビまである。電波が時折切れること以外快適だった。個人的な旅行でもフェリー旅は悪くないと思った。
その後、新潟から新幹線で東京に帰った。
なんとか無事に帰ることができたし、テレビで騒がれるほど停電の影響は受けなかった。きっとかなり恵まれた状態で東京に帰ることができたと思う。
様々な待ち時間で今まで読もうと思っていた本を読んだり、溜まっていたタスクを消化できた。
忘れぬうちに、ここに記す。