sandrutanの日記

吐き気止めの副作用が、吐き気だった。

障害者用トイレから健常者が出る作法

障害者用トイレは、私に様々な益をもたらしてくれた。なんといってもその広さであることは言うまでもないが、広いトイレ内でベッドのような台を広げて寝転んだり、気になる女の子と二人で遊ぶ前に着替えたり、普段整えない髪をツンツンさせたりしたものである。

 

ちなみに最近のお部屋の大きいトイレはすごいのである。

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世の中では障害者用トイレのことを多目的用トイレとオブラートにつつんでいるが、その言葉通り確かに多目的である。血気盛んな色気付いた男女がイカガワシイ事をしているのを目撃したことがあるが、あれは見ただけで劣等感しか湧かなかった。

 

余談であるが、私はとても汗を掻く。よって気になる女の子と遊ぶ直前まではパジャマのような格好で十分な汗をかき、トイレで着替えるというのが算段であったがそんなことはまあどうでも良い。

 

 

そんな便利な多目的トイレだが、使用する上で課題がある。前段が長くなったが、私の抱える多目的トイレに関する課題について書きたい次第である。

 

いかにして障害者用トイレから出るか

 

障害者用トイレに様々な事情を持って入ったにしろ、気まずいのは障害者用トイレを出る瞬間である。

 

ゆうゆうと若者が多目的トイレから出るのはいささか抵抗がある。なぜなら本当に必要としている人が外で待っているかもしれないからだ。

 

「まあそんなに急いだ人は来ないだろう」と甘く見て入った多目的用トイレを出る瞬間こそ気をつけなければならない。以前私は「なぜお前のような健康そうな人間がこのトイレを使うのだ」と扉を開けた瞬間に老人に糾弾されたことがあるが、その時は

 

「いや、、どうしてもお腹が・・」などと言って逃げたものである。

 

それから如何にして心地よく多目的トイレから出るかを3C分析やMECEだとかコンサル屋が使う手法を贅沢に使用して考察した結果、ある一つの答えが出た。

 

そのトイレを必要としている側になれば良いのである。

 

私はそれから、多目的用トイレを出る時は足を骨折してる人風な様子を演じて出るようにしている。

 

不思議と誰も文句は言わないもので、むしろ「ああ、あの人は使うよね」といった空気感を醸し出して自分の中のよく分からない罪悪感を退治している。

 

 

 

 

 

 

 

北海道で地震を経験したが、わりと恵まれていた人間の話

教訓

災害への準備

  1. 発電機を各家庭で持つこと
  2. 食料は3日分のバッファを持っておくこと
  3. 大災害が起き、連絡が取れなくなった時の家族との約束事を決めること

 

災害発生からの行動(家にいる場合)

  1. 近くのコンビニやスーパーに食料を音速で調達しにいくこと
  2. 断水になる前にバスタブに水を貯めること
  3. 移動する準備をすること

 

災害発生からの行動(外出している場合)

  1. 揺れている瞬間に近くのホテルを三日分確保すること
  2. コンビニへ行き、食料と衣類と充電器を確保すること
  3. 近くにいる友人を捕まえて一緒に行動すること

 

学び

①人間は電気がないと無力

もないと無力

③慌てるのは無事に避難してからで十分

 

 

はじめに

 

学会での発表も終わり、次の日には東京に帰ることを考えるともう少し札幌で遊んでおきたかったと思った。

 

しかし懇親会もあり、お酒も入っていて眠かったので札幌プリンスホテルでぐっすり眠ることにした。

 

地震発生

午前3時。突然の緊急地震速報と共に経験したことがない揺れをホテルのベッドの上で感じた。時間にして15秒程度だったが、自分でもびっくりするくらい情けない声で

 

「うああああ」

 

と叫んでいた。

 

しばらくして揺れは収まったが、情けないながら何もできずにベッドでじっとしていた。

 

状況を確認しようとテレビをつけると、呑気なショッピング番組が放映されていた。地震が起きると必ず地震速報が番組の上部分に文字で配置されるが、今回もいつも通り配置されていた。どうやら震度は6だったらしい。

 

「まあ大きな地震だったな」

 

その程度で捉え、

 

また日が登ればいつもと同じ日常がくる

 

と思っていた。

 

しかしその瞬間、テレビが消えた。停電だ。

 

ホテルでは非常電源が働き、小さな電気が一つだけ付いた。時は3時40分。

 

しばらくして寝ようとすると、不気味な警告音が再びなった。

 

それはホテルのアナウンスだった。

 

「停電が起きました。エレベーターが使えないので階段をお使いください。」

 

アナウンスくらい優しい警告音にして欲しい。

 

そういえば隣の部屋の住人は地震が起きると同時にコンビニへ行き、停電が起きる前に食料を調達していたことは音で感じ取っていたが、とても賢い行為だ。

 

その後も不気味な警告音が鳴り響くたびにホテルからのアナウンスが流れた。その度にびっくりすると同時になんとも言えない不安が襲って来た。

 

さすがに一人で体験するには怖かった。

 

学会に一緒に来ていた教授と助教の方に連絡を取り安否を確認。助教の方は徹夜で次の日の発表準備と論文執筆をしており、この揺れが収まった後でも、

 

「作業に戻ります」

 

というメッセージを残してやりとりは終わった。

 

行動

 

4時頃になり、こりゃ寝てもいられないと気づき、行動を起こすことにした。チェックアウトは午前11時だ。

 

この時点で手に入っている情報としては、

①大きな揺れが起きた

②ホテルは問題がない

③全道で停電が起きた(ソースはツイッター。いつ復活するがわからないが、すぐに復活すると勝手に予測)

の3点である。

 

この時は帰りの飛行機が欠航になることや、電車も動かなくなる、などということはまったく知る由もない。

 

PCの充電は100%、iphoneの充電も100%。

 

まったくPCを使わなければ5回分のiphoneの充電は賄えることを確認。

 

ひとまず最悪の事態も考慮して行動することにした。

 

まず私がやったことは、腕立て100回である。

 

この先運動ができない状況も考慮した。運動ができなければきっと自分にとって最大のフラストレーションになることはわかっていた。

 

よって、いつもより追い込みぎみの腕立てを行った。

 

その後はシャワーを浴びた。奇跡的にお湯が出た。この先シャワーを浴びることができない日が何日が来そうだと予測し、シャワーを味わった。

 

停電に伴って水が出ないことも考慮して、バスタブに水を貯めた。

 

また、トイレも水が流れるうちに出せるもんは出しておこうと思ったがなかなか出てこなかった。

 

次に荷造りを行った。服は残り一日分しか残っていない。咄嗟に目の前にあるホテル備え付けのパジャマをカバンに入れた。

 

学会は襟付きで長ズボンという暗黙の常識が存在しているが、翌日にもし学会があるということを踏まえても半袖半ズボンで行動した方が良いと踏んだ。

 

「TPOを弁えた服装をすること」と指定されていたが、まあ怒られれば謝ればよい。

 

すべての準備を終えた時には5時になっていた。空も明るくなり、外を見ているなんと信号がついていない。

 

驚きだった。

 

助教の方に連絡をとると、荷造りは完了したが論文の執筆を続けているとのこと。

 

ひとまず様子を見ることにした。

 

北海道に転勤になっている友人に連絡を取り、安否の確認をお互いにした。揺れは小さい地域だったが停電だという。乳製品を扱う会社の彼は、停電が引き起こす乳製品工場での被害の大きさを嘆いていた。

 

ツイッターで情報をザッピングしていると、どうやら被害は大きいということに気づく。

 

学会のアカウントも中止をお知らせしていた。

 

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これはまずいということで再び助教の方に連絡。すでに中止の連絡はキャッチしており、ひとまず朝の8時30分に大通駅付近のパルコの前で集合し、教授のいるホテルにいったん行くことになった。

 

飛行機が動くのか、電車が動くのかなどの情報を必死に探したが、出てこなかった。次の日の仕事はどうすれば良いのか。

 

 

ここで、次の行動への目処がたった私は一寝入りした。

 

起きると時刻は7時。ホテルに備え付けられているスマートフォンのようなもので情報を収集した。てんぱって英語モードで起動してしまい、googleでsearchingした。自前のデバイスのバッテリーは滅多に使いたくない。

 

東京にいる家族に無事を伝え、これからはインスタのストーリーで現状を知らせると伝えた。

 

普段現金を財布に入れない自分だったが偶然にも財布に7000円入っていた。電気がなければクレジットカードも使えないのである。

 

 

ホテルを出て、教授の元へ

忘れ物がないことを確認し、持っていたペットボトル2本に水詰め込んだ。最後にもう一度シャワーを浴びた。貯めた水はとてももったいない気がした。

 

停電の影響でエレベーターは使えない。12階から荷物を持ちながら階段で降っていった。

 

フロントにつくと早速人混みがひどかった。この中で働いているホテルの方には敬意を表したい。その人たちも地震の被害を受けた側である。

 

人混みの大半は中国や韓国から来た観光客のようだ。

 

私は偶然にも売店が空いているのを見つけた。もちろん電気はついていないが、ホテルの予備電源でレジだけは動いていた。お土産用のお菓子を食料として購入した。甘いものしか買わなかったが、この時しょっぱいものも買えば良かったとのちのち後悔する。

 

ホテルのチェックアウトはPCを使えないためか、慌ただしかった。その人が何泊したか、どんなオプションをつけたのかなどは客の自己申告に委ねられていた。

 

私はカードでの支払いですべて完了していたため、カードキーの返却だけで良かった。

 

ホテルが提携しているトヨタレンタカーのカウンターがあったので、レンタカーで東京まで行く乗り捨てが可能かの相談をしてみると、今日は事情も事情なので当日の貸し出しはできないとのこと。なるほどな。

 

外に出て待ち合わせ場所の大通駅付近のパルコに歩いて向かった。

 

衝撃だったのは信号が付いていないということだった。ただ、信号がないからこそ歩行者と車両がお互いにゆずりあい、いつもより交通はスムーズだった。

 

現地の人に道を聞きながら待ち合わせ場所に向かった。

 

現状もわからず通勤していた会社員もいた。

 

なんとか助教の方と合流することに成功した。この時点で飛行機は欠航、次の日の出社に間に合わないことが確定していた。

 

会社に自分の現状を説明し、罪悪感に苛まれながら欠勤することとなった。

「無事に帰って来てくれ」と言ってもらえるが、それでも申し訳なかった。

 

そんなこんなで電気が存在しないススキノの街を歩き、教授のいるホテルに向かった。

 

コンビニの電気はついていない。もちろんマックも空いていない。

 

こんなにも電気がないと人間は無力になるのかと悲しくなった。

 

教授のいるホテルに到着し、10階へ向かった。

当然ながらエレベーターは使えない。非常階段で荷物を持ちながら登った。そのホテルは非常電源などなく、真っ暗であったが従業員の方が一階一階に立ち懐中電灯で足元を照らしてくれた。

 

そして、教授の部屋へとたどり着いた。

 

フェリーで帰京

 

教授と助教の方と集合し、今後の帰京方法について話した。

飛行機が動かないということは、残された道は

①フェリーで本州(秋田か仙台か新潟)に上陸し、新幹線で帰る

②レンタカーで東京に帰る

 

の2点である。

 

助教の方とレンタカーを借りるために街に出た。

どこも電気は通っておらず、機能していない。

 

ここで自覚した。

 

「我々は被災者だ。」

 

この事実は未だに受け入れられることができていないが、今回の地震は紛れもなく災害であり、無力な一人の被災者だった。

 

街には海外から来た旅行者が、状況もわからずパニックになっていたのを覚えている。

 

レンタカーショップ2件にいったが、どちらも状況が状況とのことで貸し出しは断られてしまった。

 

残された手段はフェリーである。

 

教授にこの事実を報告するためにホテルに戻った。

 

その途中で偶然にも空いていたコンビニに入るが、おにぎりなどの食べ物はまったくなかった。

 

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唯一売っていたスナック菓子とパックのりんごジュースを購入した。

 

レジは店員さんが電池で動くタイプであろうバーコードリーダーで商品を読み取り、お金の計算は手元の計算機で行なっていた。

 

この時不思議に思ったのは、

 

この状況でお金の価値はあるのか?

 

ということである。お金は別に食べられない。ただ、世の中が広く信じているお金の価値自体はこの状況では皆無と言っていいのに、全員がお金の価値という幻想の信仰をやめることはなかった。

 

さらに街中を見て驚くのは、

 

この状況でも人間はまだモラルが残っている

 

ということだった。

 

コンビニに「本日閉店中」と書いてあれば、ガラスを割って入ることもない。立ち入り禁止のテープが貼られて入れば、そこには入らない。

 

しかし、もしこの状況が1週間も続けばモラルは崩壊するのではないか。などと考えていた。

 

ホテルに戻り、フェリーを予約しようとするもいずれも満席。どうにか取れたのは次の日の19:30出港の新潟行きのフェリーであった。

 

えいや!ということでこれを予約。

 

次の日に港に行くためにタクシーも予約できた。念を入れて昼の12時に出発することになった。ちなみに私が一連の予約をしたように書いたがすべて助教の方にやっていただいた。私はザコである。

 

次の日の12時までホテルで待機することになった。

 

依然として停電はしている。

 

幸せにもホテルの一室で過ごすことになった我々は本を読むなり、方々に連絡するなり、論文を執筆するなり想い想いの時間を過ごした。

 

トイレは流れず、食事は手持ちのお菓子を細々と食べる。

 

外は明るいが、もし夜になっても停電が続いているとどうなるかと考えると恐怖であった。

 

次第に電波も遅くなる。

 

 

電気がないと人間は何もできないのだな。クラウドもクソもない。

 

 

あらためて自覚する次第であった。

 

情報をツイッターであつめつつ、現状を把握していた。ツイッターを見ていて興味深かったのは、実際に地震の被害にあってない人々が「同情」し、その同情を「批判」しあっていた。

 

結局はこの事件に乗じて自己を満足するために利用しているのではないか。

 

ありがかたったのは、正確な情報だった。

 

なるべくカロリーを消費しないように生活していると、夕暮れ時に奇跡が起きた。

 

 

電気がついたのだ。

 

 

おそらくホテルの自家発電が機能したのだろうか、電気が復旧したのだろうか。

 

そこからはもう日常の生活だった。

 

ただ、ホテルの下には依然として部屋がなく避難している人が、ホテルの電力でデバイスを充電をしていた。ホテルもそれを容認していた。懐の深いホテルである。

 

信号ももちろん機能はしておらず、警察が手信号をしていた。免許を取って以来初めて見た。

 

 

夜になって散歩がてら電気が一切ついていないススキノを歩いた。奇跡的に空いている飲食店がないかと探したが、食料は一切なかった。写真はすすきのの赤髭のおじさんの交差点である。

 

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このエリアの信号のみ発電機で動いていた。

 

BBQをしている人もいれば、過呼吸で救急車で運ばれる人、様々な人がいた。

 

そんな状況の人々を尻目に私は電気の通っている部屋でインターネットをしながら過ごしていた。罪悪感の塊であるが、助けたくても正直自分のことで精一杯だ。

 

 

夜が更けた。

 

タクシーでフェリー乗り場へ

ホテルの前で待っているとホテルの運転手が来た。

 

気立ての良い運転手で、乗り心地の良いクラウンだった。

 

 

タクシーの運転手曰く、

 

信号がないことでお互いが譲りあっているからいつもより事故も起きない。気のせいかいつもより流れはスムーズ だ。

 

とのことだ。

確かにその通りで、日本には無駄な信号が多い気もする。

 

タクシーの運転手と共に昼ごはんを一緒に食べることになった。

 

漁港向けの食堂だった。

 

そこではホッキガイカレーを食べた。

 

 

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2日ぶりに食べるまともな食事に涙が出そうだった。

 

うめえ。

 

西にある港についた。タクシー運転手にバイバイをして、乗る予定の船の受付をしようとしたが、ここでアクシデント。

 

乗るはずの船がこない。

 

どうやら私たちが乗る船はタクシーで7000円くらい使う距離の東港だという。

 

北海道のほとんどの人は港といえば西しか知らないらしいということで、私は北海道に少し詳しくなった。

 

なんとか東港に移動した。

 

 

その後、フェリーに乗った。

 

自動販売機にはビールが売っていた。飲み物も食べ物も困ることはなかった。そして個室にベッド。テレビまである。電波が時折切れること以外快適だった。個人的な旅行でもフェリー旅は悪くないと思った。

 

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その後、新潟から新幹線で東京に帰った。

 

なんとか無事に帰ることができたし、テレビで騒がれるほど停電の影響は受けなかった。きっとかなり恵まれた状態で東京に帰ることができたと思う。

 

様々な待ち時間で今まで読もうと思っていた本を読んだり、溜まっていたタスクを消化できた。

 

忘れぬうちに、ここに記す。

 

 

 

 

飯田くん

中学校の4入学式を迎える前に、小学校6年生の端くれの小生意気な子供達が240人ほど集めれた。

 

これは、そんな中学校の入学式前の説明会にて出会った飯田くんの話だ。

 

彼とは偶然にも、説明会の時に前の席に座っていた。開口一番、「おれ、スマブラ全クリしたんだよね」と、当時出たばかりのゲームの全クリの自慢話を聞いたのは良い思い出である。

 

ちょっとコアな人間の特徴的な早口で、僕の知りもしないゲームの裏コマンドを言われるわけである。ただ、流行っていたゲームでもあるため、周りの初対面通しのニューヤングstudentsの諸君は飯田くんのゲーム談話を踏み台に次第に仲良くなっていくのであった。

 

今思えば彼の功績は、中高6年間でそれだけだったのかもしれない。

 

偶然にも中学入学後に飯田くんと同じクラスになった。飯田くんはいわゆる普通の子ではなかった。遊戯王のチャンピョンだったり、デュエルマスターズの関東代表だったり、家でゴキブリを飼いならしていた。そんな彼に僕は次第に観察欲が生まれていくのであった。

 

人間の多様性を知ったのだ。

 

授業中には寝て、成績もなかなかに悪く、先生に当てられれば何かと言い訳をして鮮やかに交わす様子は圧巻の一言である。

 

さて、そんな飯田くんには印象的なエピソードが山ほどあるが、彼の欠席理由はぐんを抜いて宝石の様に光輝いていた。そしてこの話の最高のトッピングは、飯田くんが自分の携帯電話から父親のふりをして欠席連絡を学校にすることにある。

 

毎朝の朝礼の時に石田くんがいなければ、クラスの半分は先生が飯田くんの欠席理由をいまかいまかと発表するのを待ち望んでいたわけである。

 

何かと休みがちな彼も、山形と大分の両親の一族が定期的にお亡くなりになるというご不幸も底をつき、とうとう観念してまともに学校に登校を始めた。ただ休むことには休むので、欠席理由は非常に面白いものばかりだ。

 

そして、彼の欠席理由には明らかながんばって嘘のパターンと、本当に事情があって休むパターンの2通りがあることが判明した。しかし、彼の抱える事情がとても中学生離れをしていた。

 

飯田くんの欠席理由(本当の事情編)僕的ベスト2を発表したいと思う。

 

 

 

①「家でゴキブリの入ったタッパーをひっくり返したので休みます。」

 

彼の家ではゴキブリを飼っている。なんでも、最初は昆虫ショップで購入したゴキブリ達が大繁殖をしてしまい、1メートル四方のケースにゴキブリを飼っていたらしい。そして、家に現れるゴキブリでさえも彼の手にかかれば優しく包まれて外来種だらけのゴキブリけーの中に打ち込まれるのだ。

 

そんなケースがひっくり返ったのというのだ。阿鼻叫喚である。

 

そのあまりにも悲惨な状況に、先生とクラスの全員はドン引きしながら彼に同情した次第であった。

 

 

②「デュエルマスターズの関東大会は部活と同じ公欠扱いになりますか?」

学校公認の正式な部活動は、どうしてもの大事な大会が学校の出席日と重なってしまった場合、致し方なく式に席するとこを許される。それが公欠。それは欠席日数にはカウントされず、社会に出てから手に入れる有給休暇に似たものがる。

 

公欠という大義名分を手に入れた人間は尊敬され、賞賛されるのが中学生である。

 

さて、それをどう履き違えたのか、あろうことか飯田くんはデュエルマスターズの関東大会に公欠が出るのではないかと先生に相談をしたのだ。

 

もちろん結果は、先生にいなされて終わるということになったのだが、そんな弊害は飯田くんにとってはゴキブリケースをひっくり返したことに比べれば大したことはない。

 

飯田くんがはある日、デュエルマスターズの関東大会のため欠席という伝説を残すこととなったのだ。

 

これにはびっくりである。みんなびっくりだ。

 

残念ながら彼の構築した火属性デッキは準優勝ということに終わり、しかしどこか"やりきった感"をだしていた。

 

彼は何をしているんだろう。

 

バイト先がマルチ商法の巣窟だった

街中で勇気を出してあかの他人に"アルバイトをしたことはあるか"と問いかければまあまあな割合で"YES"と答えるであろうアルバイトのお話である。

 

大学の入学したてのホヤホヤシャイボーイだった頃のから3年間、アルバイトをしていた。そのアルバイトはいい感じの区切りと見切りをつけ、辞めた。

 

そしてしばらく親の脛を「コレでもか!」とカジリ続けた結果、

そろそろ働くかなということでアルバイトを探した。

 

その時に出会い、わずか2ヶ月で辞めたアルバイトのお話が今回のお話の舞台、そして主役はなんといっても"欠陥人間オーナーのKさんである"

 

バイトでもするかと、ネットサーフィンをいていたところ偶然にも家の近くに時給1500円かつ飲食店のオープニングスタッフとしての求人があったので応募をした次第である。

 

初の飲食店ということもあり、楽しみでもあり不安だったのだが、人生の機会として良いと思った。そう、当時の成長意欲バリバリの僕には敵なんていなかったのである。

 

はて、初対面で喋ったKさんは割とフレンドリーだった。また、稚拙ながら店のチラシやメニューを作れるということもあり即採用をもらった。

 

一応、僕の職種は厨房を司るキッチンである。小学校一年生のころ、ホテルのシェフが目の前でオムレツを作ってくれるサービスを受けてから、「一度はコックさんになるぞまじ卍」と考えていたマセガキだった僕の夢が少しだけかなったのである。

 

しかしキッチンとして未熟なこともあり、またオープニングということもありマニュアルもなく、理不尽ではあるがビシバシとオーナーのKさんの指導を受け日々業務をこなせるようになっていく。

 

しかしこのオーナーK、理不尽の振り方が下手であり、

 

そんなオーナーKの理不尽かつ横暴な態度に耐えることができず、最初に18人いた学生バイトくん達は気づいたら4人である。

 

K「こんなことについていけないんじゃあみんな社会に出ていっても通用しないよおねえ」

 

僕「そうですねえ(レタストントン)」

 

と、ハンバーガーを音速で6個作ってお客さんにイソイソと提供していた僕は、

「確かに、彼の頭の中を推測して行動を起こさなければいけないという理不尽さはあるが、よくよく自責の念でもって考えてみればコッチが悪いのではないか」と、精神がいい感じに麻痺して順応し、生き残っていたのである。

 

まあ良い、僕的プロファイリングをするのであれば要するにKという人間は、 ”頭はまあまあ良いが人間性に欠け、きっと過去に他人に認めてもらえないという過去があるが故に自分よりも弱い者にはひたすらにマウントをとってくる、中学校二年生がそのまま35歳になっちゃった社会不適合でなんやかんや可愛げのある人間” なのである。

 

しかし僕はそんなオーナーKとうまくやりくりし、オーナーKの理不尽も華麗に受け流し他のバイトや、はたまたKでさえも笑いの渦に巻き込まれるほどに立ち回っていた。

 

業務にも慣れ、kさんがいない間は厨房にある冷凍食品を勝手に使って創作料理を食べたりしたのものだった。

 

そんなこんなで、仕事にも慣れ、気づけばKとの距離感は近づいていく。

 

バイト後に飲みにいくことも増え、なんとなくKという人間像が見えてくる。

 

そんなある日、Kにこんなことを言われるのである。

K「ねえ、良い話してあげよっか。ニャオウェイ(仮名)って知ってる?」

 

僕「えー知らないです〜(は!、、これ有名なマルチ商法では)」

 

K「えとね、これはね、こんなコミュニティがあってね、こうやってね、儲けるんだよ」

 

と、軽快に説明を始めたK

 

マルチ商法とはネズミ講のことである。詳しくは

マルチ商法 - Google 検索

して欲しい。

 

僕「へーそうなんですね!(ああ、、超巨大で絶滅危惧種的なマルチ集団でないか、、)」

 

人が良さそうに振舞っていた僕はマルチの小鼠にするにはうってつけなのであった。

 

K「ほら、うちでバイトしてるあの子とか、よく団体できてくれる常連さんとかもニャオウェイなんだよお」

 

僕「そうなんですか!それは仲間がたくさんいて良いですね!」

 

なんと僕のバイト先はマルチ商法の巣窟になっていたのだ。

 

マルチ商法自体は、本当によくできたビジネスモデルであるが、、、、とちょっと流され気味にはなるが、

 

いややっぱりなんか怖いそりゃそうだ。

 

そう、とても怖いバイト先だったのである。

 

丁重にお断りをしようと考えた僕は、ひとまずバイトの同期の人に相談するわけである。「Kさん、マルチだった、、」

 

そうするとバイトに同期ちゃんは「この店がマルチの巣窟なのは知ってた。けど、といつめたらKさんはマルチなんてやってないよって言ってたよ」とのこと。

 

なんとKさんは、それがマルチ商法で立派な怖い行為であるという認知をした上で、ボクちゃんを騙そうとしていたのである。

 

なんと、自分のやっている行為に自信を持ってオススメしてくるタイプかとそんなことはない。そう、Kさんもマルチから抜け出せなくなり、自分用のネズミを確保するのに必死だったのである。

 

そんな気持ちはお察しするが、少し悲しくなるとともにバイトを辞めることを決意した。

 

心からニャオウェイを信じているのであれば問題はない。まあ万事オーケーで話を聞いてやらんこともないのだが。

 

Kさんからマルチのお誘いを受けた二時間後に、

「Kさんは色々と尊敬はしていましたが、人を平気で騙せる人間だったということはなんだか残念です。辞めます」

 

と、颯爽とエプロンをおき、店を後にしたのである。

 

覚えたのは皿洗いの大切さと、肉の焼き方と、逃げることも大切ということであった。

 

 

 

 

同窓会

ボクの名前を田中(仮名)としてお送りする。

 

天下の芋高校の同窓会が久しぶりに開催された。僕の高校にはAからGだかHくらいまでクラスがあって、それぞれのクラスごとの同窓会はあったかもしれないが、高校の学年全体での同窓会はおそらく初めてである。

 

1クラス40人程度なので、単純計算で280人くらい来るのではないかと予想された参加者人数はなんと50人。

 

しかし会場も同窓会実行委員の「まあどうせ来ない奴がほとんどだろう」という目録通りの50人がちょっと広々使える程度のシャレた店を予約してあり、なんだかなと思うとこである。

 

受付を終え中に入ると早速びっくり、みんな男なのである。そう、我が高校は男子校。

 

仲が良かったやつもいれば、

「お前とは一度も話してないぞ」ってやつもいれば

「お前とは二度くらい話したぞ」ってやつもいる。

 

少し仲が良かった友人との距離感も、久しぶりすぎて掴めない。

 

しかし同窓会は楽しいもので、

 

懐かしい先生と

「そういえば半年で辞めた女の先生、僕が偶然拾ったエロ本の"ハメ撮られ素人枠"にそっくりさんが出てて学年中に話題になりましたよね」と花が咲いたり、

 

久しぶりの友人と

「え!?あいつが盗難犯だったの!?」

と突然の暴露大会が始まったりとナカナカに楽しかったのものである。

 

そんな感じでタジタジと3時間の会をやり過ごした。

 

その帰り道のことである。

 

店の外でガヤガヤと余韻に浸っていると、話しかけてきた男がいた。

 

多分、高校生時代に2,3回程度話したことのある程度で、名前を山本としよう。もちろん仮名だ。そいつは同窓会の前半の90分、特にだれと話すこともなく黙々とビュッフェ形式のソーセージを頬張っていたことは観察済みだった。

 

 

山本「おお!ひさしぶり!げんき!?」

 

ボク(田中)「おお!(確かこいつの名前は山本)げんきげんき!......」

 

山本「...................]

 

ボク(田中)「...あ、いま何してんの?」

 

山本「えっとねー、手話」

 

ボク(田中)「ほえー!手話!....手話ってぶっちゃけ適当?」

 

山本「ああ、なんかダジャレみたいでね、いろいろあるよ。"草生えた"とかほら、こう」

 

そういって山本は、じゃんけんのパーを両手でつくり、ボクに手の甲を見せ上下に揺らして見せた。

 

なるほどこれが、草。

 

確かに手話はダジャレであり、適当なところがあるけど理にかなっている。とても興味深かった。

 

そんな山本とも15分くらい近況報告をしあい、心なしか高校時代よりも仲良くなった気がしたが、事件はこの後に起きた。

 

山本「いやー、ミチルっちと久しぶりに話せて良かったわ〜」

 

ボク(田中)「.....」

 

何を言っているのだろうか山本は。

 

何を隠そうボクは"田中"であり、断じてミチルっちではないのである。

 

ちなみにミチルっちは、体型はボクとそっくりな人間で、中学二年生の頃にはとても仲良が良かった。仲良し三人組として当時は活動しており、三人でディズニーランドに行く約束をしたものの、ミチルっちともう一人が前日に喧嘩をして、結局ボクとミチルっちだけでディズニーランドに行ったのは良い思い出である。

 

今思えば、中学二年生の割にはムサ苦しい男二人でディズニーとは滑稽である。

 

さて、そんなミチルっちに間違われることは良いのだが、

さっきまであんなに意思疎通していた山本が、まさかボクのことをミチルっちだと思って話していたということになんとなくショックを受けた。

 

しかし、山本くんの夢は壊してはならない。ここで改めて「ワイは田中やで」とタネあかしをしたとこで、せっかく積み上げて15分の会話時間が振り出しにもどるだけで、

 

誰も徳をしないのである。

 

 

ボク(田中)「そうだね!僕も山本と話せて良かったわ〜」

 

 

僕はその日、ミチルっちとして生きた。